最後の晩餐

 

 

1915年の終わりか1916年の初め頃、その当時グルジェフは革命直前のロシアで限られた人間を集めて教えを説いていた。
そうした講義の中の一つで彼はキリスト教の最後の晩餐について衝撃的な内容を述べた。
このことについては彼の主著の "Beelzebub's Tales To His Grandson" でもアームツシーノゥとして更に詳しく説明している。
しかしとりあえず元弟子ウスペンスキーの "In Search of The Miraculous" の内容を紹介する。文中のGはグルジェフのことである。

 

<//-- 以下英語版 "In Search of the miraculous" からの拙訳 -->


同じ時期にあったさらに別の会話を覚えている。誰かが彼(グルジェフ)に、何との関連だったかは思い出せないが、万国共通の言語の可能性について尋ねた。
「万国共通の言語は可能だ。」とGは言った。「ただ人々が決して考案しないだけだ。」
「何故考案しないんです?」と我々のうちの一人が尋ねた。
「第一にそれは大昔に考案されたからだ。」とGは答えた。「第二にこの言語を理解し、それで考えを表明することは知識だけでなく存在にも依存するからだ。さらにもっと言おう。一つではなく3つの万国共通の言語が存在している。一番目の言語ではその人自身の言語の範疇内で話したり記述したりすることができる。唯一の違いは人々が通常の言語で話す時互いに理解は発生しないが、このもう一つの言語を使うと理解しあえるということだ。二番目の言語では記述された言語は全ての人にとって数字や数学の公式のように共通だが、人々はまだ彼ら自身の言語で話す。それでもたとえ一方が未知の言語で話してももう一方はそれを理解するのだ。三番目の言語では記述されたものも話される言葉も全ての人にとって同一だ。このレベルでは言語の違いは完全に消えてしまう。」
「これは使徒行伝の中で使徒たちの上に聖霊が下った時彼らは種々の言語を理解し始めたと述べられていることと同じではないのですか?」
と誰かが聞いた。そのような質問がいつもGを苛立たせることに私は気付いた。
「分からない。私はそこにいなかったので。」と彼は言った。
しかし別の折には何らかの適切な質問が新たな予想外の説明につながった。講話の間ある機会に誰かが現存する宗教の教えと儀式の中に何らかの真実や何らかの目的に導くものがあるかどうかをGに尋ねた。
「あるとも言えるしないとも言える」とGは言った。「我々がここに座って宗教のことを話し、お手伝いのマーシャが我々の会話を聞くことを想像してみなさい。彼女はもちろん彼女なりの仕方で会話を理解し、その理解した内容を門番のイワンに繰り返す。門番のイワンは同様に彼なりの仕方でそれを理解し、自分の理解したことを隣の御者のピョートルに繰り返す。御者のピョートルは田舎に行って、村で都会の紳士階級の方々が話している内容を詳しく説明する。ピョートルの説明が我々が語った内容に少しでも似ていると思うかね?これこそがまさに現存する宗教とその基礎となっているものの間の関係だ。君たちは5人どころか25人もの手を経た教えや伝統、祈りや儀式を手に入れ、もちろんほとんど全ては原形をとどめないほど歪められ、本質的なものは全て遠い昔に忘れ去られているのだ。」
「例えばキリスト教の全ての宗派において、キリストと弟子たちの最後の晩餐の言い伝えが大きな役割を果たしている。典礼、教義全体、儀式、サクラメント(キリストの神秘を目に見える形で現在化する特別な儀礼)はその言い伝えに基づいている。これが教会の分派や分離、宗派の形成の基盤となってきたのだ。どれだけ多くの人々がそのことの解釈のあれこれを受け入れないことが理由で死んだことだろう。しかしこの晩餐が正確に何だったのか、もしくはその夜キリストと弟子たちによって何がなされたのかを理解している者は実のところ誰もいないのだ。
真実に大体似ているといった説明すらない、というのは福音書に書かれていることは第一に、複写されたり翻訳される間に非常に歪められ、第二にそれは知っている人に向けて書かれたものだからだ。それは知らない人には何一つ説明できないし、理解しようとすればするほどより深く過ちに導き入れられるのだ。
「最後の晩餐で起きたことを理解するにはまずある法則を知ることが必要だ。
君たちは私が「星の体」について語ったことを覚えているだろうか。それを簡単に復習してみよう。「星の体」を持っている人々は通常の物理的手段に頼ることなく離れた距離でお互いに連絡を取り合うことができる。しかしそのような連絡を可能にするために彼らはある「接続」を確立しなければならない。この目的のために違う場所や違う国に行く時人々は時々他の人のもの、特にその人の体に接触しているもの、その人の発散が染み渡っているものを持って行くのだ。同様に死んだ人とのつながりを維持するために友人たちは故人のものを取っておいたものだ。
これらのものは言わば痕跡を、空間に伸ばされた見えない線か糸のようなものを残すのだ。これらの糸は特定の物体とその物体の持ち主を、生きている場合も死んでいる場合もあるが、結びつけるのだ。人類は最も遠い古代からこのことを知っており、この知識を様々に活用してきた。
そのことの痕跡は多くの人々の習慣の間に見つけることができる。例えばいくつかの民族が血の義兄弟の習慣を持っていることを知っているだろう。2人、もしくは5〜6人が同じコップに自分たちの血を混ぜ合わせる。その後そのコップから飲むのだ。皆が飲み干した後彼らは血による兄弟と看做される。だがこの習慣の起源はもっと深いところにある。起源においてそれは「星の体」の間に接続を確立するための魔術的な儀式だったのだ。血には特別な性質がある。そして一定の人々、例えばユダヤ人は血に魔術的な特性の特別な重要性があると看做していた。さて、分かったと思うが、もし「星の体」の間に接続が確立されれば、再び一定の民族の信念によるとそれは死によって破壊されないのだ。
キリストは自分が死ななければならないことを知っていた。前もってそのように決められていたのだ。彼はそれを知っていたし、弟子たちも知っていた。だが彼らはキリストとの恒久的なつながりを確立したかった。そしてこの目的のためにキリストは飲ませるために自分の血を、食べさせるために自分の肉を彼らに与えたのだ。それはパンとワインなどでは全くなくて、本物の肉と本物の血だったのだ。
最後の晩餐は「星の体」の間に接続を確立するための「血の義兄弟」によく似た魔術的な儀式だったのだ。しかし現存する宗教の中にこのことを知っている者はいるだろうか?それが何を意味しているのか誰が知っているのだろう?これら全ては長い間忘れ去られ、あらゆることに全く違った意味が与えられてきたのだ。言葉は残ったが、意味は長い間失われてきた。」

この講義、特に最後の部分は我々のグループの中でたくさんの議論を引き起こした。多くはGがキリストと最後の晩餐について語ったことによって不快になり、他の者は逆にこの話の中に自分たちだけでは絶対に到達できなかった真実を感じたのである。

 

<-- 拙訳終わり --//>

 

途中でグルジェフの弟子による新約聖書からの引用があるが、やや不正確であると感じたのでそれも挙げておく。これは使徒行伝第2章の冒頭部分のことを言っているものと思われる。
聖書の日本語訳はやや意訳気味なので私が直訳してみた。

 

<//-- 以下英語版 "Acts of The Apostles " からの拙訳 -->

五旬節の日が巡って来た時彼らは一堂に会した。するとその時突然天から激しい風のような音がして、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
そして彼らに炎のような舌が現れ、いくつにも分かれてひとりひとりの頭の上で停止した。彼らは全て<聖霊>で満たされ、様々な言語を
話し始めた、というのは<霊>が自分の考えを話す力を与えたからだ。

<-- 拙訳終わり --//>

 

使徒行伝というのは最近では使徒言行録という呼称が一般的らしい。また宗派によって他にも呼称があるようだ。
ここで述べられているのは何だろうか?実際に何が起きたのか、本当に起きたことなのか、ちょっとにわかには信じられないような話である。
普通に考えると、前述のとおり歪められ改変されたのかな?と思える。いずれにせよグルジェフはこの部分に対して否定も肯定もしていない。
グルジェフはキリスト教が広まった当初を秘教文明と呼んでいたので、もしかしたらそのことと関係があるのかも知れない。ただ普通に文面を読む限り奇跡的なことにしか思えないので、にわかには信じ難いというのが正直なところだろう。今回のテーマであるアームツシーノゥはチベットでも試みられたが、チベットもまた「秘教文明」の地だった。
グルジェフは前述のエピソードの数年後1918年ににエッセントゥキ(黒海とカスピ海の間にあるロシア南部の小都市)で最後の晩餐について触れている。

 

<//-- 以下英語版 "Views From The Real World " からの拙訳 -->

人類の歴史において2つの平行して独立した文明の系統がある。秘教文明と公開された文明だ。いつも片方がもう一方を圧倒し、もう一方が衰える間に別の一方が発展する。秘教文明の時期は政治やその他、適した外的状況がある時にやってくる。その時、時代と場所の状況に相応した教えの形でまとわれた知識が広まる。このようにしてキリスト教が広まった。しかし宗教がある人々にとって導きとして仕える間、他の人々にとっては単なる警官である。キリストもまた魔術師、つまり知識を持った人だった。彼は神ではなかった、と言うよりむしろ一定のレベルの神であった。
福音書の中の多くの出来事の本当の意味と重要性は今ではほとんど忘れられた。例えば最後の晩餐は人々が通常考えるものとは全く異なるものだった。キリストがパンとワインに混ぜて弟子たちに与えたものは本当に彼の血だったのだ。
これを説明するためには別のことを言わなければならない。生きているあらゆるものはそれ自身の周りに大気を持っている。違いは単に大きさだけである。有機体が大きければ大きいほどその大気も大きい。この観点においてあらゆる有機体は工場にたとえることができる。
工場はその周囲に煙や蒸気、残余物と生産過程で気化する一定の混合物から成る大気を持っている。これらの成分の値は様々である。
全く同じように人間の大気も様々な要素から成っている。異なる工場の大気が異なる匂いを持っているように、異なる人々の大気も異なる匂いを持っている。より敏感な鼻にとって、例えば犬の鼻ならある人の大気を別の人の大気と混同することはありえない。
私は人間もまた物質を変換させるための施設であると言った。有機体の中で作られる物質の一部は他の物質の変換のために使われるが、一方で他の部分はその人の大気になる、つまり失われる。それでここでも工場の中で起こることと同じことが起きる。このようにして有機体はそれ自身のためだけに動くのではなく、別のことのためにも動くのだ。知識を持った人たちは自身の内に精製された物質を保ち蓄積する方法を知っている。
これらの精製された物質を大量に蓄積することによってのみ人間の内部に第2のより軽い体を形成することが可能になるのだ。
しかしながら普通は人間の大気を構成する物質は常に使い切られ、人間の内側の仕事によって入れ替えられる。人間の大気は必ずしも球形とは限らない。それは常にその形を変える。緊張した時や脅威を感じた時、危険を感じた時大気は緊張した方向に伸びる。その時反対側は薄くなる。
人間の大気は一定の空間を占める。この空間の限界内で大気は有機体によって引き寄せられているが、一定の限界を超えると大気の粒子は引き裂かれもう戻らない。もし大気がある方向に著しく伸ばされたらこれは起こりうる。
同じことが人が動く時起こる。彼の大気の粒子が引き裂かれ、後に残され「跡」を生み出す。その跡によって人を追跡できる。これらの粒子はすぐに空気と混ざり分解するかもしれないが、かなり長い間その位置にとどまるかも知れない。大気の粒子は人の衣服や下着、彼の他のものにもとどまる。それでそれらのものとその人の間に一種の経路が残る。
磁性、催眠術、テレパシーは同じ秩序の現象だ。磁性の作用は直接だ。催眠術の作用は近い距離で大気を通じてである。テレパシーはより遠い距離での作用である。テレパシーは電話や電信と似ている。これらにおいて接続は金属の電線だが、テレパシーにおいて接続は人間によって残された粒子の跡である。テレパシーの能力がある人間はこの跡を自分自身の物質で満たすことができ、言わばケーブルを形成してこのようにして接続を確立する。そのケーブルを通じて人の心に作用する。もし彼がある男に属する何らかの物体を持っているなら、このようにして接続を確立してからその物体の周りにロウか粘土から像をこしらえ、それに作用し、このようにしてその人自身に作用する。

<-- 拙訳終わり --//>

最初に述べたとおり、最後の晩餐に関するグルジェフの説明は一般的なもので3つある。1つは最初に引用したウスペンスキーの著書「奇蹟を求めて」であり、もう1つは後年弟子たちが編纂した「グルジェフ・弟子たちに語る」である。この2つはロシアで革命前後にグルジェフが少数の弟子たちにした講義が元になっている。最後の1つはグルジェフ自身の著書「ベルゼバブの孫への話」である。これら3つは微妙に内容が異なっており、「奇蹟を求めて」ではイエス・キリストが弟子たちに自らの血と肉を与えたと説明されているが、他の2つは肉を与えたとは書かれていない。「弟子たちに語る」ではパンとワインにイエスの血を混ぜたと書かれており、これが現実的には一番ありうるかな、と思える。
ウスペンスキーの記憶違いかグルジェフが意図的にやったことなのかは分からないが、この話の骨子はイエスが自分の血を弟子たちに飲ませて肉体の死後も連絡可能にしたことなので、イエスが自分の肉を与えたかどうかは重要ではないだろう。
実は主著の「ベルゼバブ」では肉どころか血すらも混ぜたとは書かれていない。肉体より1つ上位の体であるケスジャン体(=「星の体」=アストラル体)の血であるハンブレッドゾインを混ぜ合わせた、と書かれているのだ。「弟子たちに語る」では他の2つでは全く触れていない大気についての説明がある。

 

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